PodCastの番組の中で、
坂本龍一と茂木健一郎の対談がある。
その中で坂本さんが、
「音の有限の順列組み合わせでしかないという意味では、西洋音楽はとっくに行き詰まっている。」
というようなことを言って、それに対して茂木さんが、
「音楽には譜面でかけない音の豊かさがある。この領域を人間はまだ窮めていない。」
というような返答をする。
そういう領域を茂木さんは
<クオリア>と呼んでいるらしい。著書を読んでないのでよくわからないが、質感とかそういう意味らしい。
この概念自体はまったく新しいものではなく、誰でも日常的に知っている感覚のことを指していると思われる。それをなぜわざわざ格好付けて<クオリア>などと呼ばなければならないのか最初はよくわからなかった。
「なにかでないもの」が明確になってはじめて、「なにか」とはああそういうことか、と合点が行くことはよくある。この場合も坂本さんとの上の会話で「<クオリア>でないもの」が明らかになることによって、<クオリア>なるものがよくわかった気がした。
iTunes Music Storeなんかで適当に曲を流し聴きしているとよくわかる。あそこでは何万もの曲がジャンル分けされている。ロックならロック、ヒップホップならヒップホップをジャンルごとにどんどん聞き流していくと、いろいろな曲、アーティストがいたとしても、結局は、ジャンル毎のだいたいの「文法」の中で音の組み合わせがちがうだけに聞こえる。つまり、どれも同じように聞こえるのだ。
しかし、あるきっかけ、たとえば、友人に勧められたとか、思い出深い出来事があったときにかかっていたとか、ラジオでヘビーローテーションでかかっていたとかいう出来事をきっかけにして、ある曲やアーティストが突然輝いて聞こえてくることがある。これがおそらく<クオリア>が立ち上がった瞬間だ。
あるアーティストに惚れ込んだりすると、音楽はもう<クオリア>の塊に変化してしまう。そこの大変化が比較的起こりやすいのが音楽で、だれもが経験したことがある体験なので、例としてとてもわかりやすい。
茂木さんは、これまでの科学では扱いにくかったこういう領域を、脳科学者としてのご自分の研究対象として明確に捉えるため、わざわざ名前を与えたのだろうと推察する。
しかしながら、私個人としてはこの<クオリア>概念は、これまでもやもやと考えていたことにぴたっとはまるなあという感覚を覚えた。というのも、ここ最近こういう<クオリア>的なものに対する感覚がすごくvividになってきていると実感するのだ。なんというか、<クオリア・チャクラ>が開きつつあるんではないかという、ぐらいに。
<クオリア>的なものに対する興味は尽きないです。もっと研究してみたいと思います。